OSHOのほとり

OSHOのことばを分かち合う

美しい寓話

イエスが つねに語り続けてやまなかった美しい寓話がある

 

ある父親にふたりの息子があった

下の息子は自分の分の財産をねだり

それを持ち去って街で酒と女に使い果たし

とうとう乞食になってしまった

もうひとりの息子は父親とともに残り

農場で一生懸命働いて多くの富を築き上げた

そんなある日

その乞食の息子

道を踏みはずしたほうの息子が

父親に知らせをよこした

「私は帰ります

私は馬鹿者でした

あなたの富を無駄遣いしてしまいました

私を許してください

いま私にはどこにも行き場がありません

どうか私を受けいれてください

私は家に戻ります」と

すると父親は親類縁者にこうふれまわった

「この好機を祝おうじゃないか

一番よく肥えた羊を殺し

おいしい食べ物をたくさん作り

甘いお菓子を街中に配るのだ

奴のためには一番古いワインを手に入れよう

これは祝宴になるぞ

放蕩息子が帰ってくるんだ」と

 

村人たちの何人かが農場に行って

これをもうひとりの息子に話して聞かせた

「どうだい

なんという不公平だろう

お前はずっとおやじさんといっしょにいたんだ

まるで召使いみたいに彼に仕えた

一度だって道を踏みはずしたこともない

一度だって彼に逆らったこともない

ところがただの一度も

そのお前さんのために祝宴の催されたためしはない

そんなことは前代未聞だ

それがいまどうだ

あのやくざ息子

あの乞食

おやじさんの金を残らず使い果たし

罪の限りを尽くしたあの野郎が戻ってくる

不公平もいいところじゃないか

お前のおやじはなんとそれを祝おうというんだ

街に来てみろよ

甘いものが配られてるぜ

盛大な祝宴の用意が整ってるんだ」

 

上の息子がかんかんに腹を立てたのは言うまでもない

彼は家に帰った

とてもせつなかった

彼は父親につっかかっていった

「これはいったい何という不公平ですか?

あなたは私のためには一度だって羊を殺したためしはない

どんな贈り物をくれたこともない

ところがいま

あなたが与えた富を残らず

それも良くない道に使い果たしたあいつが帰ってくる段になると

なんとあなたはそれを祝おうとするじゃありませんか」

父親は言う

「そのとおり

なんとなれば

お前はずっとわしといっしょだったのだからな

こんな必要はないんだ

だがあいつの帰ってくるのは祝わにゃならん

あれは道を踏み誤ったんだ

あれは一度迷子になって また見つかった羊なんだ」

 

この話の持つ完全な含みは

クリスチャンには充分くみ取られてはこなかった

実際にはこの話は

タントラの意味することを語っているのだ

これはタントラ寓話だ

これは もし正道ばかり歩いていたら

あなたが存在によって祝福されることはあるまいという意味だ

あなたは単純馬鹿なだけだ

生によってうま味の出ることもない

あなたは自分の中になんの塩味も持たないだろう

栄養はあるかもしれない

しかし薬味なしだ

あなたはとても単純だろう

善良だろう

しかしその善良さには複雑なハーモニーはあるまい

あなたは単音であって

何百万もの音が

ひとつのメロディーを織りなしたものにはならないだろう

あなたはなんのカーブもない一本の直線だ

カーブや角があるからこそ美しい

それが深みを与える

それのない神々しさなど浅はかなものだ

 

タントラが あらゆるものが美しいと言うのはそういうことだ

罪でさえも美しい

罪はあなたの神々しさに深みを与えるからだ

道を踏み外すことすら美しい

なぜならそれがあってこそ

<帰還>がより豊かなものになるからだ

この世界はあなたに必要なものだ

その中に飛び込んでいって完全に我を忘れてしまうためにね

で それから<帰還>がある

「存在の詩」 バグワン・シュリ・ラジニーシ